皆さん、こんにちは。昔、宮崎県立図書館で働いていたこともあって、第23代宮崎県立図書館長・中村地平の後輩を自認するDiceです。
その中村地平の生涯を描いたドキュメンタリー映画「中村地平」の上映会が、12月14日(土)の午後に、東京・六本木の六本木ヒルズの一角にあるハリウッド大学ホールで開催されることになりました。
中村地平とは
中村地平(本名・中村治平衛)は、1908(明治41)年宮崎市の生まれで、旧制宮崎中学校(現宮崎大宮高等学校)時代に佐藤春夫の台湾小説を読んだことがきっかけで南方に憧れを抱き、台湾台北高等学校に進学。
同校を卒業後、1930(昭和5)年に東京帝国大学(現東京大学)文学部に進学。同じ年に太宰治(本名・津島修治)も文学部に入学しています。
学生時代の1932(昭和7)年に「熱帯柳の種子」を文芸誌『作品』に発表。やがて井伏鱒二に師事し、同門の太宰治、小山祐士とともに、「井伏門下の3羽ガラス」と称されたと言われています。
大学卒業後の1937(昭和12)年に発表した「土竜どんもぽっくり」と翌1938(昭和13)年の「南方郵信」で連続して芥川賞候補になり、いわゆる「南方文学」の旗手として注目されました。
太平洋戦争の戦火が激しくなってきた1944(昭和19)年に故郷宮崎市に疎開。
終戦後には、宮崎日日新聞の編集総務を経て、混乱する首都圏に代わり出版事業を担う西部図書株式会社の設立に関わりました。
1947(昭和22)年には、宮崎県立図書館長に就任。予算と人材の確保・育成に努め、広い人脈を生かした文化講座の開催や県内全域を巡回する自動車文庫の導入など、戦後の復興期に宮崎の文化向上に努め、現代につながる図書館サービスの基盤を作りました。
1957(昭和32)年には、県立図書館を辞して父・常三郎が社長を務める宮崎相互銀行(現・宮崎太陽銀行)の取締役となり、1961(昭和36)年には社長に就任しましたが、健康を害して翌年に辞任。
1963(昭和38)年2月26日、宮崎には珍しく雪の降り積もる日に、55歳の若さで死去しました。
早すぎたその死は、実業界にとっても、文学界にとっても、そして図書館界にとっても、多くの人に惜しまれるものでした。
監督は世界で活躍するアーティスト小松孝英さん
本作の監督は、1979年延岡市出身で、宮崎市を拠点として、蝶に代表される生態系をモチーフに日本の伝統絵画の技法も取り入れたアート作品を制作している小松孝英さん。
国内はもちろん、ニューヨークやロンドン、香港、シンガポールなど、世界各国で個展を開催したりアートフェアに出品したりと世界を股に掛けて活躍しており、世界中にファンを持つ気鋭のアーティストなのです。
そんなアーティスト活動の中、台湾美術界の重鎮・教育者として、台湾美術展覧会を創設するなど振興と近代化に貢献した、宮崎県西都市出身の画家・塩月桃甫の存在を知り、その顕彰のために自らスポンサーを募って、ドキュメンタリー映画「塩月桃甫」を制作しました。
自身が宮崎に拠点を置く小松さんは、歴史や文化の地位が低く見られがちな宮崎の現状を憂い、こうしたドキュメンタリー映画を通して、知られていなかったり忘れられている宮崎の偉人達の活躍を紹介することで、改めて宮崎県の持つ価値を創造したいという思いがあるとのこと。
そして、第2弾として制作したのが、台湾台北高等学校で美術教師として働いていた塩月桃甫の薫陶を受け、台湾を含む「南方文学」の旗手として中央の文壇で活躍後、戦後の宮崎で今で言う地方創生の先駆者として活躍した中村地平の生涯を、地平を知る多くの人の証言で描いたドキュメンタリー映画「中村地平」なのです。
文学者、図書館長、実業家と様々な顔を持ち、それぞれの分野で多くの業績を上げた中村地平について知ることのできるドキュメンタリー、宮崎出身者のみならず、是非とも多くの人に観ていただきたい映画です。
12月14日(土)の上映会の概要
日時:2024年12月14日(土) 12時開場、13時上映開始
場所:ハリウッド大学ホール
東京都港区六本木6-4-1 六本木ヒルズ ハリウッドプラザ5階 → MAP
入場料:無料
定員:300名(申込みは下記の参加申込みフォームのリンクから)
主催:映画「中村地平」上映委員会
後援:宮崎県(予定)、宮崎市(予定)、宮崎県在京経営者会議
当日は、小松孝英監督も来場の予定で、私もスタッフとして会場におりますので、皆様のご来場をお待ちしています。