宮崎県内でお城と言えば、日南市の飫肥城、延岡市の延岡城(縣城)、高鍋町の高鍋城(舞鶴城)、宮崎市佐土原町の佐土原城(松鶴城)など、今も城郭の残る城址を思い浮かべる方が多いのではないかと思います。
それに比して合併前の旧宮崎市は天領で、城などなかったと多くの方に思われているようですが、実は歴史をたどると、旧宮崎市の北部、池内町と呼ばれる一帯に約680年前に築城された城があったのでした。
秋晴れのある日、その痕跡を探しに出かけてきましたので、その模様をお届けしましょう。
宮崎城趾
宮崎神宮の西縁を通る県道44号線を北へ、平和が丘団地の入口を通り過ぎて更に1kmほど北へ走ったあたりの道路沿い左手に、このように「宮崎城趾」と書かれた木製の柱が立っています。
この柱のところから、民家の前の道を西へ入ります。
ちょっと入ると、分かれ道にこのような小さな案内板が。
「満願寺口」という登り口のようです。左手の小径を進みます。
すると、立派な門が見えてきました。ここが「満願寺口」のようです。
このあたりは、35~40年ほど前に訪れて以来なのですが、以前はこんなものはありませんでした。
「四百年祭」と書かれていますね。いつ建てられたのでしょう?
門の横には、城の歴史(縁起)について書かれた案内板が立てられています。
写真では読みにくいので、テキストに書き写してみました。
慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いは遠く日向の地にも影響を与えた。日向国の諸大名のうち、すでに家康に通じていた伊東祐兵(すけたか)は、石田三成のさそいがあったが、病気を理由に断り、その兵だけを伏見城攻撃に派遣した。しかし、兵を動かさずに、逆に家康方であることを実証しようとして黒田如水に相談した。そして如水の意見によって子祐慶(すけのりが帰国し、西軍に属した諸将の城を攻めた。その一つが宮崎城である。
関ヶ原の戦いの時の日向国は伊東氏を除くと西軍に属する武将の居城で占められていた。
県(あがた)城は高橋元種、財部(高鍋)城は秋月種長、佐土原城が島津豊久、諸県庄内が島津忠恒であった。その時、高橋氏の支城である宮崎城を守っていたのが権堂種盛であった。
現在、本丸とか野首城とか百貫城、射場城、彦右衛門城、丸城、馬乗馬城などの郭(くるわ)跡がわかっているが、ほとんど畑地と雑木林とからなっている。空堀としては百貫城と馬場の間の猿渡といわれるところなどがある。
城への登り口は目曳(めびき)口、船ヶ崎、野頸(のくび)口、満願寺口があった。
この城は南北朝の動乱期に図師六郎入道慈円が南朝方として拠っていたが、後に伊東祐堯の領するところとなり、三位入道義祐も飫肥攻撃の拠点とした。義祐没落後、島津氏の領するところとなり、家老上井覚兼が入ったが、彼の城での生活ぶりは「上井覚兼日記」で知られている。その後、豊臣秀吉の九州征伐後高橋氏が領していたわけである。
ところで、伊東の臣、清武城主稲津重昌は宮崎城兵の数倍の兵力でこの城を攻め、守将種盛以下奮戦むなしく討死し、城は陥落した。関ヶ原の余波といえる戦いであった。
「宮崎の自然と文化」シリーズから引用宮崎市
ふむふむ、いきなり関ヶ原の戦い(1600年)から始まっていますが、城の歴史としては、南北朝時代(1336~1392年)に遡るようです。
調べてみると、図師六郎入道隋円・慈円父子により、1335(建武2)年もしくは1336(延元元)年に築城されたと伝えられていますので、約680年前に築かれたことになります。
ちょっと汚れていますが、手書きの「宮崎城趾案内板」も立っています。いわゆる「縄張り」というやつですね。
これを見ると、上記の説明板にあるとおり複数の郭のうち少なくとも6ヶ所を今でも確認することができるようです。
城への道は、ちょっとしたアドベンチャーだった!
だいたいの雰囲気が確認できたので、早速、門をくぐって登り始ましょう。
観光地の城のようにきちんと整備されている訳ではなく、草が生い茂ったりしていますが、踏み跡があるのでなんとなく道はわかります。
しかし、いきなり道をふさぐように竹が倒れていたりして、ちょっと先行きが不安になったり。
少し上ると、またもや竹が倒れて道を塞いでいます。
ちょっと大丈夫かなと思いますが、くぐって行けなくはないので、そのまま進みます。
中腹より下の方の道は周辺が竹林になっていて、所によってはこのようにいい雰囲気の場所もあるのですが、里山に人の手が入らないようになって林相が竹に浸食され荒れていくのは、各地で問題になっています。
倒れた竹を見ると、このあたりも森の管理が課題なのかもしれません。
更に進むと、今度は倒木が道を塞いでいます。ますますヤバイ雰囲気です。
周囲に人影は全くなく、私がここに来ているのは誰も知りません。進んでも大丈夫なのか、しばし逡巡。
この先どんな罠が待っているのかわかりませんが、テゲツー!読者のことを考えれば、ここであきらめる訳にはいきません。
ということで、写真右側の隙間をくぐり、先へ進みます。
上っていくと、丁字路に出ました。
案内板が立ってます。
左が「本丸城址」、右が「目曳城址」とあります。
とりあえず本丸城址を確認し、その後で引き返して目曳城址に行くことにして、左へ進みます。
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