いよいよ本丸城址に到着
しばらく進むと、開けた場所に出ました。
周囲は杉の木に囲まれていて、草が生い茂っていますが、ここがひとつの頂上のようです。
空き地の中央に「本丸城跡」と書かれた杭が立てられていますが、他には何もありません。
かつてはここにどんな建物が建っていたのでしょう?
ここから先、彦衛門城址に進む道もありましたが、どの程度かかるかわからないので、来た道を引き返すことにしました。
引き返そうとして左手を見ると、杉木立の奥に続く道がありました。
木立の奥の空き地には、送電線用の鉄塔が立っています。
青空を背景に下から見上げる鉄塔。
680年の歴史を経て、兵どもが夢の跡に建つ建造物はこの鉄塔だけ。何か物悲しさを感じますが、先を急ぎましょう。
鉄塔を後にして来た道を引き返し、分岐の看板を過ぎて目曳城址と思われる空き地にやってきました。
ここも、草が生い茂っているだけで、特になにも無いので、更に先へ進みます。
次なる丁字路にやってきました。
この先に服部城址があるようです。
木立の中の道を進んで、「服部城址」と書かれた杭の立つ場所にたどり着きました。
ここは、他の場所と違ってきれいに整備されており、記念碑が建てられています。
向かって左側の記念碑には、「宮崎城三百五十年記念碑」の文字が刻まれています。
横には、「昭和二十八年十月」の文字もありました。昭和28年は、西暦1953年。そこから350年前ということは1603年。
向かって右側の記念碑には、「宮崎城四百年記念碑」の文字。
これには、横に「平成十二年十月一日建立」の文字が刻まれています。平成12年は、西暦2000年。三百五十年記念碑と3年のずれがありますね。う~む謎だ。
宮崎城は、慶長20(1615)年の一国一城令により廃城になったと伝えられていますので、そこを起点とすると今年(2015年)がちょうど400年目に当たるはずなのですが、何を起点に周年祭が行われているのでしょうか?
【追記:2015年11月16日】
宮崎市にお住まいの高浜確也さんから、次のような情報をいただきました。
400周年は、1600年の落城を起点にしていたはずです。2000年10月の「宮崎城まつり」の中で除幕式も行われ、宮崎市長や当時の城代(権藤種盛)の子孫などがいらっしゃってました。
「1600年の落城」というのは、関ヶ原の戦い後、豊臣方の高橋元種の所領だった宮崎城が、徳川方の伊東氏家老・稲津掃部助によって攻められ落城したことを指しているのですね。
高浜さん、ありがとうございました!
その謎の答えが中央の石碑にあるような気もするのですが、かなり風化が進んでいて、見ただけでは刻まれた文字が判読できませんでした。
詳しくは、過去の文献を調査するしかなさそうです。
服部城址からは、東側の眺望が開けていて、遠くにシーガイアのオーシャンドームとシェラトン・グランデ・オーシャンリゾートが望めます。
昔は、ここから日向灘の輝きが遮るもの無く眺められたことでしょう。
こちらは、南東方向、遠くにラグゼ一ツ葉が見えます。
宮崎平野を一望できるこの立地も、ここに城が築かれた理由の一つなのでしょう。
この先にもう一つ、射場城址があるようですが、この日は時間も十分では無かったので、この服部城址を最後に、元の満願寺口に戻りました。
その途中でみかけた自然の写真を、最後にお届けしましょう。
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