「ブラタモリ」好きのDiceです。
橘通の東側を南へ向かって歩いていたら、宮崎信用金庫本店の横、県庁の裏手に当たる一方通行の道路の入口に、「クラーク通り」という表示が出ているのに気づきました。
クラーク?
クラークで通りの名になっていることから推測すれば、おそらくは人名でしょう。
クラークという人物ですぐに思い浮かぶのは、「少年よ、大志を抱け」で有名なクラーク博士(ウィリアム・スミス・クラーク)か、はたまたSF界の巨匠A・C・クラーク(アーサー・チャールズ・クラーク)かというところですが、二人とも宮崎と縁があるという話は知らないので、おそらく別のクラークさん。
いったい誰なんでしょうね?
そして、この道はどこまで続くのでしょう?
道を辿ると答えにぶち当たるかもしれないと、標識の指す東へ向けて、進んでみることにしました。
県庁本館の東側、「宮田通り」を越え、
宮崎八幡宮の前を通る「八幡通り」も越え、
若草病院前を通過してさらに東へ。
宮崎日赤会館のある「西老松通り」も越え、
宮崎駅前を通る「老松通り」に到達。
どうやら、ここが「クラーク通り」の東詰のようです。
Google Mapで見ると、こういうルート。約700mの西から東方向への一方通行の通りです。
しかし、ここまでの道のりでは、ヒントになりそうなものは見当たりませんでした。
さて、どうしましょう?と思って周囲を眺めていたら、道の横の公園に、何やら怪しげなものが…!
「クラーク通り」の東詰と「老松通り」が接する角に比較的大きな公園があります。
「栄町街区公園」という名のその公園の一角に、男性の立像と、それを見上げる二人の子どもの像があるではありませんか。
近づいて顔を見ると、明らかに日本人ではありません。
この方がクラークさんなのでしょうか?
像の下部に銘板が埋め込まれており、
「サイラス・A・クラーク」
と刻まれています。
クラークさん、ようやくお会いできました。
銘板には、次のように書かれています。
サイラスA・クラーク
一八五一年六月十一日米国ニューヨーク州デェリンの農家に生れ苦学力行三十七才にしてオベリン神学校卒業同時にハリエット・M・ギユリックと結婚
一八八七年アメリカンボードの宣教師として来朝
一八九二年一月熊本より宮崎に移り以来一九二四年七十三才をもって引退するまで実に三十三年間県内津々浦々に亘りキリスト教伝道に従事しかたわら社会事業に多大の功績を残した
一九三三年二月四日米国カリフォルニヤ州クレアモントに没す遺志により宮崎市春の山に葬る
一九六七年二月県市三有志その徳を称えここに銅像を建つ
ここまでわかれば、追加調査も楽なもの。
Google先生にお伺いを立てたところ、宮崎県庁のWebサイトの中にある、「みやざきの101人」の中に『C・A・クラーク』の項があり、そこには、
「こよなく宮崎を愛し、新しい生活文化の数々を人々に紹介した米人宣教師、サイラス・A・クラークは、1851年、ニューヨーク州ダリエンの農家に生まれ、オハイオ州のオバリン大学で神学を学び、苦学して31歳で卒業。同学のハリエット・ギューリックと結婚した。
やがて夫妻は異国での伝道を志して来日。夫人の兄の赴任地である熊本で、1年過ごした後の1892(明治25)年、宮崎市の広島通に移り住み、県内各地で神の教えを説いた。」
と記されています。
明治期に宮崎にいらっしゃったアメリカ人宣教師だったのですね。
少し長くなりますが、この項を更に引用させていただくと、
「その際、当時としては珍しい鉄輪の自転車に乗り、幻灯機を使用したため、人々の話題をさらった。さらに1914(大正3)年、休暇で一時帰国した折り、県の出身者たちから自動車を贈られ、車体に「福音号」と白ペンキで書いて走り回り、これまた注目を浴びた。こうした異文化との出会いは、たいへんな驚きだったと、関係者は語っている。
そればかりでなく、彼は幼稚園や日向訓盲院(後の県立盲学校)の開設、さらには生活改善にも取り組み、夫人もまた自宅を女学生ホームに解放して、英語や洋裁や西洋料理を教えるなど、幅広い社会奉仕活動に携わった。
こうした献身と温かい人柄で、だれからも親しみ慕われたクラークは、1924(大正13)年、病でハリエットを亡くし、3年後の定年を機に宮崎を去って帰国。32(昭和7)年、サンフランシスコ郊外で、81歳の生涯を終える。そしてその遺骨は遺言により、愛妻が眠る宮崎市の春の山墓地に埋葬された。第2のふるさとを愛し続けた生涯を記念し、宮崎市老松通の児童公園には、在りし日の彼をしのぶ銅像が建てられている。(原田 解)」
とあります。
当時は本当に田舎町だったであろう宮崎に、西洋の文化をもたらして人々を驚かせ、教育や社会福祉などの礎を築いて、宮崎を愛し、宮崎の人々に愛された方だったのですね。
それ故に、通りに名を遺してその偉勲を称え、有志によって公園に銅像が建てられているということになるのでしょう。
宮崎県の公古文書を収集・保存している「宮崎県文書センター」には、クラークさんが宮崎に初めて自動車を持ち込んだ際の文書なども残っているそうです。
詳しくは、下記のPDFファイルをご覧ください。
歴史資料文書新着情報「サイラス.A.クラーク氏関係の歴史資料文書」
クラークさんが宣教師として活動した教会は、「日本キリスト教団 宮崎教会」と言い、今も宮崎市別府町の宮崎太陽銀行本店前に現存しています。
さすがに礼拝堂は2010年に新設されていて往時の面影はありませんが、その隣には「共愛幼稚園」という幼稚園があり、クラークさんが開設して以来の歴史を刻んでいます。
クラークさんの銅像のある「栄町街区公園」の近く、老松通りに面して、「クラーク記念国際高校」の宮崎キャンパスもありました。
これも、サイラス・A・クラークに縁のある高校なのかと思いましたが、こちらは、「少年よ、大志を抱け」と語った北海道開拓の父・クラーク博士(ウィリアム・スミス・クラーク)の精神を引き継いで創立された、広域通信制の高校なのだそうです。
日本の北と南で明治期に活躍したアメリカ人が、こういうところで交わるというのも、何か面白いですね。